東大五月祭サイクロトロンの建設に参加した人たち:当時は学部3年生
1976年 梅本康成、江間泰示,川合光、立石裕、永塚伸太郎
1977年 有坂勝史、粟野晴夫、市川明彦、梶野敏貴、中島震
浜本悟志、日達昭夫、吉野毅、満田和久、宮崎信行
和気泉、阿久津泰弘、飯野俊雄、平賀譲、門倉真二
1978年 井倉康雄、太田滋生、岡田安弘、片山伸彦、五神(桑田)真
斉藤理一郎、滝本淳一、武末真二、峠暢一、長沼和則
真下哲郎
1979年 石川隆、石原照也、岩井順一、岩橋正憲、大和壮一
大川ひとみ、北谷英嗣、須藤靖、園田英徳、多田伸雄
滝口真澄、坪山透、中河原幹晴,松尾由賀利
1980年 小形正男、大淵泰司、儀間敏昭、高橋忠幸、徳宿克夫
徳永万喜洋、長岡隆太郎、原隆、村上弘、吉沢雅幸
酒井規夫
1981年 町田慎二
1982年
1983年 吉田哲也
『未完』
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東大五月祭サイクロトロン建設参加者の想い出:
[1977年組] 有坂勝史 (UCLA 教授)
1977年冬、物理学科に進振りで滑り込んだばかりの時でしたが、山崎先生の実験物理の講義で初めてFNAL(フェルミ研究所)やSLACの写真を見た時の衝撃は、今でもはっきりと覚えています。自分もこんなのに参加出来たらどんなに面白いだろう、と熱い思いをかきたてられたところだったので、その先生が最終講義で、「ところで去年の五月祭で、一期上の人がサイクロトロンを作ったけど、続きをやりたい人はどうぞ」と言われた時は、待ってましたとばかりに飛びつきました。十人ほどいっぺんに集まったので、皆も同様の興奮を覚えたのでしょう。
春休みに入り、目白の医科学研究所に集まった我々は、発振器・イオン源・真空・チェンバーの各班に分かれ、中学時代アマチュア無線で真空管を並べて遊んでいた私は、もっと経験の豊富だった満田君たちと組んで発振器を担当することになりました。そして、当時、山崎・中井研の助手だった中山さん・今里さんにオシロの使い方から発振器の基本に至るまで教えを乞いながら、見よう見まねでの設計に取り掛かったのです。
けれど、発振器作りは、そう簡単にはいきませんでした。少なくとも、あの頃の自分達の手に負えるものではなかったのです。五月祭が近づくと、本郷での講義はそっちのけで医科研に終電まで居残り、外から取ったチャーハンの出前などかきこみながら、お手製の部品の組み立てに専念したのですが、イオン源・真空チェンバーの各部品は順調に完成しても、発振器だけは思うように動きません。焦りばかりが募る中、五月祭前日が来てしまい、とりあえずトラックで理学部一号館の小部屋に各部品を運び込んだ後に、最後の望みを賭けて、もう一度組み立て直したのですが、やはりだめでした。
祭りの期間中は、何処からともなく大勢の見物客が物珍しがって集まって来てくれました。折角のお客さん達を前にして、肝心の装置が動いてないのですから、悔しいやら情けないやらで、冷や汗の連続です。なんとか彼等の関心を引き止めようと、声の大きさだけを頼りに、加速器の原理を図解したポスターなどを指差しながら必死になってしゃべり続けるのが精一杯でした。言い訳がましかった説明は、今となっては恥ずかしい限りですが、そんな一連のすったもんだも若き日の懐かしい思い出です。
さて、最終日も終え、片付けを始めたところ、チェンバーのD型電極が高抵抗経由でグラウンドに落ちておらず、そこにDC成分が掛かったままになっていることに気付きました。これではどんなに陽子をAC成分で加速しても、きれいな円軌道は描かれず中心軸がずれてしまうはずだと合点、原因はこれだったのかとばかりに抵抗を付けて再挑戦しましたが、それでも陽子の加速は最後まで検出できませんでした。
ただ、この体験を通して実験室に入り浸る生活にすっかり取り付かれてしまったのだけは確かで、その夏は、小柴先生のところで募集していた夏休み実験、宇宙線ミューオンの測定に、今度は延与君たちと共に参加しました。張り切ってフォトマルをいじり始めたわけですが、それにしても、3年生の時は何をやっても惨憺たるもので、適切な高圧の設定法すら皆目わからず、ただ闇雲に突っ走っているような状態が続いたのです。
この宇宙線の実験もまた、夏を越しても全くまともなデータが取れずに秋学期に突入してしまい、しびれを切らした先生には、「お前たち、なにぐずぐずやってんだ。やる気がないのならたたんでしまえ」と一喝されたりもしましたが、今になってみれば、あの頃の試行錯誤や思う存分させていただいた結果の失敗の積み重ねこそが、かけがえのない贅沢だったとわかります。そこから、それを一つ一つ乗り越えてゆく喜びや実験の真髄を教わったからです。小柴研には、結局そのまま大学院生として居座り、神岡の実験装置の設計に携わることになりました。
こうして振り返ると、実験屋を志すに至ったのは、学部の時からオープンに開かれた研究室に自由に出入りさせてもらい、その中で伸びやかに仕事をすることの楽しさを味わわせていただいたからに他ならないと気付きます。その後、アメリカに来てかれこれ20年余り。90年代には憧れだったFNALに、自分の研究室で初めて作った装置を持ち込んで実験に加わる機会も得ました。幾つかの実験を経て、使用済みの装置もたくさん集まりました。それらの実験装置の山に囲まれながら、今度は自分が次の世代のために何を提供してあげれるだろうかと考える番です。ヒントはきっと、若かりし頃、自分が先生方から授かった本郷の理想郷にあるのかもしれませんね。
東大五月祭サイクロトロン建設参加者の想い出:
[1978年組] 峠 暢一 (高エネルギー加速器研究機構 助教授)
私が五月祭サイクロトロン建設に参加させてもらったのは、1978年度のことでした。この年までにサイクロトロンのDeeは完成、電磁石も大きなものを核研からお借りすることになっており、残された課題は、先輩たちが建設された陽子ソース、それから発振器、この二つをいかにして動作さすか、にありました。
前年までの先輩たちが製作した発振器は、ちょうどA1(電信)の無線送信機のような回路構成(ソース、ミキサ、逓倍、増幅など)をしており、中学高校時代にアマチュア無線をしていた私は、その回路図の考え方は大体分かりましたので、ではこれを、と取りかかりました。ざっと回路をみて、前年の作品の低電力部まで動作確認したら、後段の電力増幅部はリニアアンプの要領で改造すれば良いだろう、と見当をつけました。同級グループに居た片山君、五神君、長沼君たちに相談しますと、彼らもアマチュア無線経験者で、同様の感想をお持ちのようでした。
ところが、念のためサイクロトロンの発明者Lawrenceたちの原論文を見てびっくりしました。彼らの回路は原理図そのものの三極管増幅回路のグリッド部とプレート部に同調したLC回路を二個つけ、三極管自身の内部結合だけで発振させるという、もっとも単純な構成でした。なるほど、前年の先輩たちは大変な努力をされたのですが、実は、RFを寄生発振しないように注意深く電力増幅する回路を考える必要は、なかった。単に、どうやっても発振してしまう回路を作れば良い、目的に向かって一直線に邁進すればよろしい、と。計画は急展開、簡単に効率を計算して電力増幅用三極真空管807Aが二本あれば良いだろう、と目星をつけてから、担当グループで秋葉原にはしり、807Aをはじめ、ソケット、電源用ダイオード、LC回路部品、シャーシなどを買ってきました。あとは、山崎-中井研のみなさんが実験されていた医科研に上がり込み、実験室の一部にグループコーナーを頂戴して、泊まり込みの作業に突入しました。
医科研では、研究室のドリル、旋盤、フライスなどを自由に使わせてもらいました。回路自作のとき、腕力的に最も面倒で消耗なのはシャーシとパネルの金属加工だ、というのがそれまでの私の感覚でしたが、この研究室の環境は天国でした。高価なQメータやスコープの恩恵にもあずかり、回路製作は順調に進みました。おりにふれ、研究室助手の中山さん(現KEK教授)、大学院生の千葉さん(現東京理科大教授)に作業上の注意やコメントを頂きました。より正確には、勝手に邪魔をしに行って、相手をしていただきました。
担当グループの面々は皆、意気軒昂で、とにかく研究室環境の快適さが嬉しくてたまらず、朝でも夜でも、時刻に無関係に目が覚めれば作業し、腹が減れば食べ、また作業し、眠くなれば寝る、という原始共産制のような作業生活を満喫しました。Deeの静電容量を測ってから、適当な周波数にマッチするコイルを銅パイプで作るべく、数名でわいわい言いながら作業しているところに、中井先生がにこにこしながらやってこられたことを思い出します。作業の途中の息抜きで、医科研サイクロトロン(本物の医療用、研究用の機材です)をのぞきに行きますと、授業のときのスーツ姿しか存知あげなかった山崎先生が、ツナギの作業服姿でスパナ片手に装置に取り付いておられて、「これは偉い先生だよ」と、自分たちの生意気も顧みず勝手に感動したことも思い出します。
発振器にかんして総括しますと、学生たちだけで好き放題をさせてもらい、まずまずの性能も出せましたので、研究活動(の真似事)の出だしとしてはとても良い原体験をさせてもらい、非常に幸福だったと思います。ただ、サイクロトロンそのものとしては、私たちの年度では陽子源が思ったように動作せず、もしくは電流モニターの感度が十分でなく、全体の動作を確認するには至りませんでした。本物の研究開発ならば、問題が生ずれば当初の担当分野や得意不得意に関わらず、皆でこれに取り組まなければならないところですが、残念ながらそこまでの考えと行動が十分伴わなかったのは、当時の私の未熟なところだった、と言わざるを得ません。また、天国のような作業環境を使わせてもらって有頂天になっていた私でしたが、その環境を作る、という仕事があるのだ、ということに思い当たるのはずっと後のことでした。最後に、「若い人たちに一切を任せて、思わず口を出したくなるところを我慢する」に至っては、いまだに遠い先の目標のように思われてしまいます。「サイクロトロン建設」とは、こうしたことに、今でも思いめぐらせることができるような体験をさせていただいた、ということなのだ、と思います。改めてお礼申し上げます、どうも、ありがとうございました。
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