|
京都 - 仙台 - 東京 - 岡山 - ? - ?- ?- ? - - - - 「アルスタウンミーティングシリーズ」の趣旨説明 ・「アルスの会」の沿革 ・「アルスの会」設立の精神とJ.J.ルソーの考え ・ 人類を精神的汚染から守る学問と芸術 ・ 文化と文明 ・ 学術行政と科学技術行政 ・ 日本学術会議の誕生, 活躍, そして半世紀後の変容 ・「アルスの会」のこれから |
* この後,文中の青字をクリックするとアルスの会ホームページ中の文章などにリンクします。
(但し、図の枠中の青字URLについてはご自身で入力下さい)
「アルスの会」の沿革
「アルスの会」発足の動機は伏見康治先生の遺志を継ぐことにあった。
戦後の大阪大学で、廃墟と化した日本の学術研究を建て直す道について伏見先生と菊池正士先生の意見が分かれたそうである[原子核科学の半世紀 p.10]。菊池先生は何よりも優れた研究業績を挙げることであるとして米国に行ってしまわれた。 伏見先生は研究体制を整えることが大切であると主張され、発足したばかりの学術会議に立候補して会員となられた。それ以来先生は20世紀後半の学術行政に大きな足跡を残された。その代償は理論物理学者としての伏見先生の比類なき才能であった。先生はその資質に富む人生を学術行政に捧げられた。
20世紀の末、科学技術基本法・基本計画が成立したその年に伏見先生が主宰しておられたリンクス・リセウムの最終シンポジウムが開かれた。先生は。やがて迎える21世紀の学術行政を心配して提案されたと思う。その時先生は「お役人の主導ではなく、純粋な科学者集団として研究費の在り方をどのように決めていったらよいかということを自分自身で考える」ことの大切さを訴えておられた。
続いて、大学の独立法人化を進める国立大学法人法、学術会議の変容をを招く学術会議法施行令、等が次々成立し、学術研究の環境が大きく変わった。研究者主導の学術会議は形骸化し、政財界・官界の主導による科学技術行政が学術行政を制し、公共事業と同様の事業に堕落した。そこに文化の薫りは無い。
この事態に対し、2005年に民の意見を代表する研究者集団を目指し、伏見先生を名誉会長に仰いで学術文化同友会「アルスの会」を結成した。いわば民製の学術会議目指すものである。
「アルスの会」設立の精神とJ.J.ルソーの考え
学術文化同友会に「アルスの会」というニックネームをつけた由来は伊達宗行先生が「アルスへの回帰」という論文に「18世紀初頭まではサイエンスもアートもなかった。これらは全体としてアルスと呼ばれていた ・・・科学全体がアルスへの回帰を考えるべき時期に来ていると思う」とお書きになったことに依っている。
数年経って「アルス」の意味を深く考えなければと思っていた時、18世紀フランス思想史に詳しい文学者で高等研副所長の中川定久先生に接する機会を得た。先生は、J.J.ルソーの考えは産業革命に否定的であるとお話になり、ルソーの「学問芸術論」(前川禎次郎訳:岩波文庫)を教えて下さった。そこで、ルソーの論文を読んで驚き、感激した.これは、フランス・ディジョンのアカデミーによる懸賞論文の課題「学問と芸術の復興は習俗の純化に寄与したか」に対する投稿論文で、ルソーはこの課題に否定的な論を展開している。ルソーは学問芸術の完成は魂の腐敗を呼び生活の便宜が増すと奢侈が広がり徳は消えると論じている。「知識よりも徳を重視する」ルソーの考えはアルスの会が求める精神と重なるところが多い。
何よりも驚いたのは、ルソーの論文は産業革命の起点であるワットの蒸気機関の発明より15年も先んじて書かれたもので素材にはエジプト・ギリシャ・ローマ、或はペルシャの時代を採り上げて論じている。
それにもかかわらず、ルソーの議論は、21世紀の現在のわれわれの身辺に起こっていること言い当てている。ルソーの論文は今日の科学技術行政に対する批判であり、科学に携わる人達に対する警告であると思った。
このルソーの論文がきっかけとなって[学問芸術と社会」というテーマでアルスタウンミーティングのシリーズを企画することになった.最初に京都で開き中川先生に講演をお願いした.先生は1750年頃に始まるフランスの思想の転回,ディドロやダランベールによる百科全書の編纂など啓蒙運動の最中でのルソーの活躍その影響力の大きさなどをお話し下さった.先生は、ルソーは危険であるということをも話された.ルソーに心酔して無批判に行動することの危険性を指摘され、フランス革命におけるロベスピエールらの過ちについても話された.ルソーの考えは情緒的で矛盾に陥っているところが少なくないことを学んだ。しかし、時代を変える力には,危険な考えも大切なのであろう。
人類を精神的汚染から守る学問と芸術
ルソーの論文より十数年後に始まった産業革命により社会は変わり、人々の生活は大きく変わって暮らしは向上した。しかし産業の発展に伴う産業公害が人々を悩ませ、科学技術の成果が戦争に利用されて多くの人を殺戮した。われわれ日本人は、ヒロシマ・ナガサキの悲劇を忘れることはできない。
ルソーの言葉は科学技術全盛の現代に対する警告としてこころに響く。
豊かな社会に住む者に対するルソーの警告は、産業公害のような直接的で物質的なこともあるが、それよりも大きい精神的汚染という公害に向けられるべきである。ワイスコップ教授は、CERNのサマースクールにおける講演で、社会に広がる精神的汚染の恐ろしさを指摘し、人類を精神的汚染から守ることが学問と芸術の最も重要な社会的貢献であり、責務であると強調された。
21世紀に入って科学技術基本法が成立し基本計画が着々と進められている。科学技術に対する国の投資が大きくなって大学・研究所等における研究者は幸せに見える。わが国の科学技術に明るい進歩が期待できる。しかし、この施策は政財界の主導で官界が作り出した環境であることに不安を感じる。
科学創造立国という美名の下に経済至上主義が目立ち、研究・教育両面で文化の薫りに欠けている。
伏見先生が科学者主導の科学行政の危機を感じておられた21世紀の研究環境はこれでよいのかと思う。
文化と文明
ルソーの考えに従うと、産業革命が開いた近代科学の発展とその結果に否定的な考えに陥る。
科学研究に携わる者には受け入れ難い考えである。学問の成果が便利で豊かな社会を造り出すが、その成果が奢侈を増大し徳の衰退を招いて、人類社会に悲劇を生むことは許されない。
一方、ワイスコップはそのような考えによって反科学的思想が蔓延ることを警告し、学問と芸術が人々の昂揚心を育て、精神的向上を促すと強調された。
学問について、この否定的と肯定的な二つの考えを深く考えると「文明」と「文化」の違いに思い当たった。「文化」について、かつて第15期学術会議で「文化としての学術特別委員会」(宅間委員長)で論争があり、3年間に13回の会合を重ねながら結論に至らなかった。当時の近藤次郎会長の回顧によれば、「文化」についての理解が分野によって大きく違うことが原因の一つであったそうである。
哲学者の参加を得て開催した仙台のタウンミーティングでは、特にカント研究の第一人者と呼ばれる石川文康先生にカントと学問・芸術というお話を頂いた。カントは人類発展の諸段階を、[自然状態]⇒[文明]⇒[文化]⇒[道徳]と捉え、学問の最終の使命は、道徳的完全性を求めることにあると説いた。原始の自然状態から、道具が出現し生活の便宜が得られると「文明」が生まれ効率的になるが同時に公害や戦争など負の部分も生まれる。「文明の悪臭」である。やがて、生活に精神的余裕が生じると「文化」が育ち「文化の薫り」を楽しめる。更に学問はその精神的向上を極め、人々に精神的で道徳的な歓びを与えるという究極の使命がある。
振り返って、現在の科学技術行政はどの位置にあるのかと考えてみよう.明らかに「文明」の階層に留まった政策で[文化の薫り」を楽しむ余裕は無い。研究資金は豊かになっても効率中心主義で、何時迄に何ができるかを問うだけでは、学問は楽しめない。
このように「文化」と「文明」を対照して考えると、「学術」振興と[科学技術」推進の哲学が違うことに気がつく。以前から[学術」と「科学技術」は違うと主張していたが、それは、「文化」と「文明」の違いに対応していることを学んだ。旧体制では、文部省と科技庁がそれに対応していた。文科省に統一されたことは良かったのであろうか?と思う。
学術行政と科学技術行政
「文化と文明」に対応して考えると「学術」は「文化」、「科学技術」は「文明」を生み出す活動であると言えよう。「学術と科学技術」に関して考えると、20世紀後半の日本でそのモデルになる二つの流れがあり、その歴史を振り返ると対照をなしている。
二つの流れとは「原子核研究」と「原子力開発」である。
1955年に原子核研究所が設立され、1949年に発足した日本学術会議の下に研究者の民主・自主の精神を掲げ、共同利用研究体制による素粒子・原子核の基礎研究の拠点となった。
一方、世界に広がる原子力開発の動きに対し、日本も遅れをとってはならぬという国策的見地から1956年に日本原子力研究所が設立された。その時、学術会議には批判勢力が多く実働的でないというのであろうか、別個に科学技術会議が発足した。
前者は基礎科学の最先端を開き意欲的な人材を生み出して日本の文化を築こうとする努力であり後者は、日本のエネルギー政策に支えられて原子力文明を開こうとする努力であった。それからの半世紀に亘る両者の発展を比較すると、「学術文化」と「科学技術文明」の特色が顕著に現われその長短があからさまになる。
湯川・朝永のノーベル賞に力づけられ国からの強い支援を得た原子核研究は、大型加速器の建設ばかりでなく共同利用研究体制の整備・資金援助などで成長し、世界のトップに立つ成果を続々と挙げた。学術会議傘下の研究者集団の激しい論争を通じた大型計画の事前評価が研究の道筋を定め、成果の評価を重ねてきた。この研究者主導の努力が小林・益川のノーベル賞に結実した。
一方、世界の流れに追いつこうと始めた原子力開発の努力は、わが国の産業界を育成し、今では世界のトップに並ぶ原子力技術を世界に誇れるようになった。しかし、政財界に導かれた官僚主導の体制は、技術の丸投げ、失敗の隠蔽などで、社会問題化した事件も多く、国民の科学技術不信を招き、多くの負の遺産を築いてきた。
日本学術会議の誕生, 活躍, そして半世紀後の変容
湯川・坂田・朝永に始まった半世紀に亘る素粒子研究は、小林・益川理論の実験的検証によって世界に誇る成果を生んだ。その成功には理論研究を支える実験研究の努力が大きかった。そして、その基盤として、仁科・菊池・伏見・茅・小谷らのリーダーシップによる学術会議中心の学術行政があった。
学術会議の誕生は新憲法の誕生に似ている。敗戦から立ち上がろうとする時に日本の学界政界は決め手を欠く状態であった。そこで占領軍が入り、半ばその指導の下で「3人組」と呼ばれた田村・茅・嵯峨根で新体制の検討が始まり学術体制刷新委員会(兼重会長)が作られ、そこで練られた構想によって学術会議が1949年に誕生した。学術会議は、原爆をはじめとする戦時の苦い経験の反省を踏まえて、研究者主導の体制を築きあげ、左手では科学者に道義そして社会正義を訴え、右手では研究資金の獲得や研究環境の向上に努めて来た。
具体的には、科学者としての社会的責任を声明などの形で社会に訴え、研究所の新設等を勧告した。特に後者については、予め研究者グループで厳しい論争を重ねることで充分に「事前評価」を行ってから勧告するのでそのほとんどが採択される状況であった。
ところが、第7期になると、学術会議の「お墨付き」をもらえば良いと言う考えに陥り、充分な事前評価も無く多くの勧告が乱発されるようになった。そうなると、学術会議の勧告を尊重していた文部省は、独自に評価をするために学術審議会を設けた。この頃から次第に学術会議が力を失い、さらに21世紀に入って科学技術基本法・基本計画が施行されるようになると、学術会議による研究者主導の体制は崩れ政財界と官僚が主導する委員会の一つのようになってしまった.
「アルスの会」のこれから
20世紀の学術会議を中心とした研究者主導の学術行政は21世紀に入ると姿を消し、政財界・産業界に支配された官僚主導のもと国策的効率主義の科学行政が蔓延ってしまった。おかげで研究資金は豊かになり、研究者の希望は満たされたかに見えるが、大学等における研究環境は厳しく余裕のないものになっている。
まさに J.J. ルソーが指摘したことを実験しているような環境である。科学技術立国というスローガンの下に科学が経済を刺激することを期待する政策は、科学者のこころから余裕を奪い、文化の薫りとはほど遠い世界を展開している。
この事態に対し「アルスの会」は何ができるのであろうか? と、自問しても答えは見つからない。 しかし、挫けないで初心に返り、答えを探すために、いろいろな苦労と経験を重ねている多くの友人とともに考え論じ合って答えを見つけたいと考え、タウンミーティングのシリーズを企画した。京都、仙台に続く東京のミーティングでは、これ迄の議論に立って,自らの「アルスの会」の行動計画を建て直す機会にしたいと考える。
「アルスの会」は始めてから4年が経つが,従来は先ず研究者のこころに訴えることに力を置くという考えでIT技術を活かし、ホームページやブログ「アルスの広場」を通じてアピールや意見交換を行うとともに、アルス文庫に多くの会友から寄せられたエッセイや論文を集めてきた。
このようなIT上の努力のほかに,人対人の対話と討論が必要であると考え始めたのがタウンミーティングである。やはり、意見交換に温かみが生まれ、説得力もあることを学んだ。今後も,いろいろ工夫を重ねるべきである。タウンミーティング@東京の第3〜4部はこのような議論を重ね、「アルスの会」の行動計画について参加者の皆様のアイディアや批判に期待する.討論の叩き台としての試案を次に示す。