アルスの会 〜文化としての学術を護る 学術文化同友会〜
アルスタウンミーティング シリーズ:学問・芸術と社会
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 「アルスタウンミーティング シリーズ」 : 学問・芸術と社会  

  アルスタウンミーティング@東京(11/28・29)    

ARSTown Meeting@Tokyo

 ●京都(7/22)・仙台(8/22)のタウンミーティング
 に続き11月28・29日にタウンミーティング@
 東京を開催しました。
 ●ここをクリックして、京都・仙台の二つの
 ミーティングのまとめ「学術文化の薫りを
 求めて」をご覧下さい。 
 ●京都・仙台で学んだ歴史と哲学を背景に現代
 の学術研究と教育の環境を見直し、21世紀の
 学術の展開を正しく導くために、私達は何を
 なすべきか考える機会にしたいと考えました。
 ●そして、アルスの会は具体的に何ができるか
 戦略・戦術を論じ合いました。

 ●ここをクリックして 東京ミーティング開催
 企画の経緯をご覧下さい。

 ●東京ミーティングは、内閣の行政刷新会議
 が行った"事業仕分け"による騒ぎの中で、
 落ちついた議論はできずに終わりました。
 しかし、この騒ぎはアルスの会が目指す道
 を示す反面教師的教材となり多くのことを
 考えさせられました。
 
 
 


 

  アルスタウンミーティング@仙台(8/22)    

ARSTown Meeting@Sendai

 ●参加者40名、東北大学関係者のご努力に
  よって、東北大学のグローバルCOEプロ
  グラム「物質階層を紡ぐ科学フロンティア
  の新展開」と共催することができた。
  同大学副学長・理事の野家啓一先生 (科学
  哲学専攻) をはじめとする哲学者多数と
  物理学者が一堂に集り講演と討論の会を
  持つことができた。
 ●伊達宗行先生 (本会特別会員) の講演「アル
  スの形成と変容」を中心に学術に関する
  歴史観を論じる機会が得られた.
 
 
 
 
 
 

 
 

 

  アルスタウンミーティング@京都(7/22)   

ARSTown Meeting@kyoto

 ●参加者23名、その殆どを占める物理研究者
  がフランス文学者中川久定先生の講演を
  強い興味を持って拝聴した。













 学問・芸術 と 社会 : アルスタウンミーティング@京都、仙台の主題 

[1] J. J. ルソーの第1論文「学問芸術論」と「アルスの会」の精神 

 文化としての学術を護るという行動目標を掲げて「アルスの会」を立ち上げて4年になります。 会の発足に際し、特別会員の伊達宗行先生が「アルスへの回帰」という課題を提起されました。
 サイエンスもアートも無く全体としてアルスと呼ばれていた時代に立ち返り、産業革命によって変革を遂げた社会を反省することは本会の重要課題の一つであり、「科学と社会」の在り方を反省することが行動の原点であると考えています。「科学者のこころ」について何を論じ、何を訴えるか、暗中模索の日々が続いていました。そんなある日のこと、国際高等研で副所長の中川久定先生からJ. J.ルソーの考えは産業革命などについて否定的であったというお話をうかがいました。そして、ルソーの「学問芸術論」(前川禎次郎訳、岩波文庫)をお教えいただきました。学生時代から、難解な言葉のつながる哲学書や思想書はあまり好きでなく多くは途中で放棄したものでありましが、ルソーの論文は一晩で一気に読みました。そして20代の頃のように興奮を覚えました。
 ルソーのこの論文は「学問と芸術の復興は、習俗の純化に寄与したか」という課題でフランス, ディジョンのアカデミーが募集した1750年度懸賞論文にルソーが応募し当選したものであります。それまで無名であったルソーはこの論文で一躍有名人になったというものです。 ルソーはアカデミーの課題に対し否定的な論を建てています。ルソーの論文の前川訳から文章の一部を抜粋しますと、

Rousseau
  *「学問芸術の光が地平にのぼるにつれて、徳が逃げてゆくのがみられます.」
 *「われわれの学問と芸術とが完成に近づくにつれて、われわれの魂は腐敗したのです.」
  *「生活の便宜さが増大し、芸術が完成にむかい、奢侈が広まるあいだに、真の勇気は
   萎縮し、武徳は消滅します.」

        など、

言葉の一つ一つが新鮮な響きをもって心に伝わり共鳴する感動をおぼえました。これこそまさに「アルスの会」が求めている精神であると思いました。
 翻訳者が解説で述べられているように、知識よりも徳の重視、教育の改革、奢侈と不平等への敵意、原始状態への憧れ,社会を圧する腐敗と滅亡の脅威、などルソーの思想の萌芽がほとんどすべてこの論文に現れています。ルソーのこの論文は、その後の数々の論文「人間不平等起原論」「社会契約論」「エミール」などの起点となり、フランス革命を始めとする思想の原点となりました。

[2] ルソーの第1論文「学問芸術論」に照らして学問と今日の社会を考える。

 ルソーが論じたこの論文の素材は、当然18世紀以前の過去の歴史に基いています。エジプト・ギリシャ・ローマ・・・の歴史です。そしてシナの歴史も多くを教えてくれます。しかし、われわれはルソーが知らない近代の歴史を知っています。産業革命の結果、夏目漱石を悩ませたロンドンの公害、第一次大戦の兵器開発による破壊と大量殺戮、第二次大戦の原子爆弾の悲劇、など、数限りない例を挙げることができます。社会の腐敗、人類の滅亡の危機に襲われてきました。一方、それらの中で進歩した科学技術は人類に便宜を与え、豊かさを生んできました。内燃機関、自動車、電動機、電車、電子技術、核エネルギー,核医学・・・などはその例です。ルソーはそれさえも、人間の徳を消失させ、真の勇気を萎縮させていると言うのでしょうか。科学技術を志し、推進してきた人たちには反論したくなる議論です。
 ルソーの論文は高い評価を受けましたが、必ずしも全面的に受け入れられたわけではなく、当時でも批判は強かったそうです。何よりも先ず、科学が成熟していない時期にそれを評価して否定的なことを言える状況に無かったことには注意すべきでありましょう。軍事のために開発された航空機や電波技術が社会に貢献していることを、ルソーはどう考えるでしょうか? そして、われわれはどう考えるべきでしょうか?
 ルソーの考えは前時代的で批判されるべき要素が多いとしても「知識よりも徳を重視する精神」は時代を超えた普遍的なものであると考えます。産業革命が拓いた19〜20世紀の社会では、学問や芸術は産業・軍事を支える政治・経済の支配に強く影響されてきました。21世紀の社会も同じことが続くことでしょう。
 21世紀の今日、われわれは更に新しい進展を見ています。素晴らしい科学技術の発展に目を奪われる日々を体験しています。しかし、この日常的な体験の中で、ルソーの論文を読むと,ルソーが提起した問題が鏡に映し出されるように次々と浮かび上がってきます。科学者の「徳」が薄れています。科学者のこころが蝕まれています
 とりわけ、21世紀になってからの我が国の科学技術振興策には大きな疑問が感じられます。科学技術の推進が、産業振興を重視する政治家・官僚によって支配されるようになった結果、成果主義中心の競争的研究環境が生まれ、研究者の多くは苦しんでいます。科学者が、学問の目的ではなく、研究費獲得のために自己の研究テーマを選ぶ時代になりました。大学や研究所はその存在意義を忘れ、ただその存続をめざす資金獲得のために研究・教育のプロジェクトを建てています。 そのような環境の中で、学者の「徳」が消えつつあります。そして学者の腐敗も聞かれるようになっています。文化としての学術は危機にあります。
 このときに、もう一度ルソーの論文に帰り「徳」を護ろうという精神を呼び戻したいと考えます。その精神こそが、文化としての学術を護る「アルスの会」の基本理念だからであります。

(註) ルソー(1712-1778)は、フランス革命(1789-1794)の思想を導き、産業革命(18c-19c)の入り口を見ただけで、第1次世界大戦 (1914-1918)、第2次世界大戦 (1941-1945) は知らないわけです。この間、科学技術の進歩は著しく、社会は変革変貌を重ねて来たわけですが、それでも、エジプト・ギリシャ・ローマ・・・の社会を見て行ったルソーの批判は、今も変わらないと感じました。

[3] 学問・芸術の社会貢献、Weisskopf の精神 

  ルソーの考えが学問芸術の社会への寄与について否定的であるように思うのは誤りです。
  論文の論調が否定的になっているのは、ルソーがアカデミーの懸賞に応募するにあたって友人のディドロと話したとき肯定的な論は凡庸で、否定的な論は新しく豊かで実りが多いと考えたからであったと翻訳者は解説しています。 肯定的な立場では懸賞に当選したかどうかあやしいものであったことでしょう。
 ルソーの論文に沿ってここまで論じてきた学問芸術と社会の関係で、重要な寄与が全く抜けています。それは、学問と芸術は人間の昂揚心を刺激し、その精神を高めることであります。社会に蔓延る反科学的傾向に常に警鐘を鳴らしていた大物理学者ワイスコップ教授が繰り返し強調されたことでした。 ある日、CERNの夏の学校で教授は「科学者の社会貢献」と題する講演で次のように学術の精神的・文化的な面を強調されました。


Weisskopf  「’Pollution’ にはMaterial Pollution と Mental Pollution があります。
 前者は、化学汚染、放射能汚染などの物質的汚染です。
 このタイプの汚染は技術的に解決する道があるはずで、科学技術よりも 政治・経済の問題が大きいものです。誠実な政治、良心的な経済政策によって解決が得られる問題でありましょう。
 後者の精神的汚染はもっと恐ろしいことです。若者は自己昂揚心を失い刹那的な 悦びを求めて麻薬など非社会的な行為に走ります。若者でなくても人生の目標を 見失った人達は家庭を忘れ、職場における士気を失います。結果としていろいろな 物質的汚染にも結びつきます。

 人類を精神的汚染から守るものは、「学術」と「芸術」であります。人類が他の動物と異なる点は、自己の昂揚を求める気持ちです。これを失っては、個人も、家庭も、社会も、全てが乱れてしまいます。 若者が憧れ、人々に夢を与える知的な世界を築くことが「学術」の最も大切な社会貢献であります。」
 学術は社会の精神的・文化的風土を高めます。学術研究の結果として生まれる経済的・社会的効果も大切でありますが、学術のより本質的な意義を見失ってはなりません。「文化としての学術」という言葉を、もっと自然に理解される社会にしたいものです。
 科学の社会貢献には、内燃機関、自動車、航空機、電子技術・・・のように「生活の便宜を増大する」’物質的な’要素と「社会の精神的・文化的風土を高める」’精神的な’要素の二つの面があります。ルソーの論理では、前者について「奢侈が広まり」「徳が消える」として、否定的に考えるかもしれません。実際、そこには軍事や産業の要請に支配され、政治・経済的要因に左右される要因が多くあります。しかし、後者については、ルソーも肯定的に受け入れると信じます。  われわれは、どのように考えるべきでしょうか?
 議論を興したいと考えています。

[4] 社会に対する科学技術の功罪:核エネルギー利用の例

 科学技術と社会の接点には、正と負両面の効果があります。科学技術は両刃の剣であると言われます。
一つの典型的な例として、核エネルギー利用についてその功罪の総括を考えることにしましょう。
1939年にハーンとストラスマンが核分裂を発見したとき、人類は核エネルギーを手にしました。究極の物質の構造を求める原子核物理学の大きな成果でありました。しかし、この核エネルギーは、先ず軍事目的に利用され、原子爆弾が作られて広島・長崎の悲劇を生むことになりました。 原爆製造競争に掻き立てられた科学者自身は大きく傷つき、原子核研究に携わる科学者も己の研究がこのような悲劇に結びついたことに怯えました。
一方、核エネルギーの平和利用も原子炉の出現により、徐々に進みました。原子力発電が電力供給の重要な要素となっています。研究用原子炉によるアイソトープ製造も普及し、産業利用、医学利用など社会に大きく貢献しています。核エネルギーの軍事利用と平和利用という双子のそれぞれが社会に与える影響は対照的です。軍事利用が否定されることは当然であり、平和利用は歓迎されます。しかし、平和利用も危険きわまりないことに気付くには遅れがありました。菊池正士先生は、原子炉の中に蓄積される放射性物質の量の大きさが膨大であり、危険であることを指摘して居られました。果たしてチェルノブイリの原子炉事故が起こり世界中が原子炉事故の恐ろしさを知ることになりました。しかし、もっともっと小さな事故の件数が増えることも恐ろしいことです。事故防止の安全措置はハード・ソフト両面で固められています。今日の科学技術で安全を守れないことはないはずです。
 それでも、最終的に安全性を脅かすのは、科学者の、或は作業者の「心」です。科学技術の罪の部分をなくし、功の部分を活かすためには、科学技術の全ての面で心の大切さが訴えられます。「武徳」つまりモラールの低下が恐ろしい結果を招くことになっています。「モラルとモラール」 の重要性を訴えたいと思います。

                (中井浩二) 



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                 中井浩二 (nakai@post.kek.jp)