報告:アルスタウンミーティングシリーズ2 第1部
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アルスタウンミーティング シリーズ2の 第1回 を2011年7月23日午後に東大理学部で開きました。以前に京都-仙台-東京で行ったシリーズから2年目になります。今回は、福島原発事故に触発されてこの大事件を深く考察する機会として企画しました。この事件はそれ自体が大きな問題であり被災者に与えた,そして今も尚与えている苦痛の大きさは言うまでもありませんが、「科学と社会の在り方」を深く考える素材と捉えて、その本質を深く追究することは大切であると考えます。原子力の開発という科学の重要な社会貢献の在り方を考える上では、過去半世紀に亘る歴史の中で学ぶことがあまりにも多く急いで対応しなければならない事案も多いことですが、科学の成果が社会に活用されるまでの過程を深く反省する必要があると考えこのシリーズを企画しました。
最初に「アルスタウンミーティングシリーズ2011」の企画について下記の計画案を示して中井が説明を行いました。ミーティングシリーズの討論主題を3部に分けて行います。 すなわち;
第1部では、過去半世紀に亘る原子力開発の研究とその事業化に対する反省。(いわば事後評価)
第2部では、福島原発事故の真の原因の追求。長期的対応策の評価と原子力科学と事業の未来像の構築。
第3部では、この歴史の反省を踏まえた科学の評価。科学と社会の在り方についての基本理念の構築。
主題「原子力平和利用 - 過去半世紀の総括と次世代への提言」第一部:わが国の原子力研究創始期の夢とその後 原子核研究者は何をしてきたのか? (1) 第1回 (7月23日、主会場:東京) 学術会議に於ける原子力平和利用推進の発案 ー 研究者主導の路線 (2) 第2回 (7月31日、主会場:大阪) 財界・産業界による国策としての原子力利用推進の熱意 (3) 第3回 (8月1日、主会場:奈良) 高速炉、高温ガス炉、軽水炉、舶用炉 第二部(案) 福島原発事故の顛末 放射線被害の実質と風評被害の怖さ 人材養成と適確な人材配備 原発の運命 代替エネルギーの可能性 科学者の貢献と責任 核廃棄物処理 原子力研究の今後 第三部(案) 科学は両刃の剣 再びルソーの文明批判 科学者と社会の在り方 科学者とは何か 学者・技術者・政治家・市民 |
アルスタウンミーティング
の電子NET化について
今回から、アルスタウンミーティングに TV会議の方法を部分的に導入することにしました。当面は、仙台・東京・大阪に会場を設けます。その他にEVOシステムを利用する道も作っています。
同時にEVOシステムを用いて会議の動画記録を残せるようになりました。閲覧するにはEVOに登録が必要ですが、簡単な作業で可能です。
詳細は ここをクリックして下さい。
第一部:わが国の原子力研究創始期の夢:学界 vs.政財界
第1部, 第1回 (1)「アルスタウンミーティングシリーズ2011」の企画について
[EVO動画記録:……/town_meeting-11-07-23-13072/town_meeting.evo]
(⇧会議の動画記録を見る方は青字をクリックして下さい)
アルスタウンミーティング2の 第1部、 第1回 は 2011年7月23日午後に開かれました。主会場を東京(東大理学部ICCEP会議室)に設け、副会場は大阪(阪大RCNP)と仙台(東北大)でした。
主会場では,先ず「アルスタウンミーティングシリーズ 2011」の企画について中井が構想(案)を説明しました。
次に討論を始めるに先立って、これまでのアルスの会の歩みを紹介しました。特に2年前に行ったアルスタウンミーティング1のまとめ「学術文化の薫りを求めて」にある J.J.ルソーの「学問芸術論」で論じられた批判と、それが惹き起こしかねない反科学的思潮に対して警告する V.F.ワイスコップの論は、アルスの会の基本理念・基本姿勢に強く結びついていて、福島原発事故の社会的影響を見る時、その本質的な重要性を訴えたいと考えました。
太平洋戦争に於ける敗戦の廃墟から立上がった20世紀後半の日本の科学を振り返ると、二つの流れがあり、その二つの流れは著しい対照をなしています。
二つの流れとは「原子核研究」と「原子力開発」であります。前者は、文部省の下に展開した「学術文化」の復興であり,後者は、科学技術庁が支えてきた「科学・技術文明」の開拓でありました。
1955年に設立された原子核研究所は、1949年に発足した日本学術会議の下に研究者の民主・自主の精神を掲げ、共同利用研究体制による素粒子・原子核の基礎研究の拠点となってきました。
一方、世界に広がる原子力開発の動きに対し、日本も遅れをとってはならぬという国策的見地から1956年に日本原子力研究所が設立されました。その時、学術会議には批判勢力が多く実働的でないというのでしょうか、別個に科学技術会議が発足しました。
前者は基礎科学の最先端を開き意欲的な人材を生み出して日本の文化を築こうとする努力であり後者は、日本のエネルギー政策に支えられて原子力文明を開こうとする努力でありました。それからの半世紀に亘る両者の発展を比較すると、「学術文化」と「科学技術文明」の特色が顕著に現われその長短があからさまになってきました。
湯川・朝永のノーベル賞に力づけられ国からの強い支援を得た原子核研究は、大型加速器の建設ばかりでなく共同利用研究体制の整備・資金援助などで成長し、世界のトップに立つ成果を続々と挙げました。学術会議傘下の研究者集団の激しい論争を通じた大型計画の事前評価が研究の道筋を定め、成果の評価を重ねてきました。この研究者主導の努力が小林・益川のノーベル賞に結実したと言えましょう。
一方、世界の流れに追いつこうと始めた原子力開発の努力は、わが国の産業界を育成し、今では世界のトップに並ぶ原子力技術を世界に誇れるようになりました。しかし、政財界に導かれた官僚主導の体制は、技術の丸投げ、失敗の隠蔽などで、社会問題化した事件も多く、国民の科学技術不信を招き、多くの負の遺産を築いてきました。福島の事故はその終着点のように思えます。
中井の説明に対し、昔からの論友、湯川哲之さんから厳しい批判的コメントがありました。
湯川:中井さんの話を聞いていると、始めに結論有りという印象を受けた。過去の分析をして、欠陥部分を改善することにより原発は続けたいと言う考えが窺われる。この会の趣旨は全てについて白紙から議論しようと言うことだと理解している。原発をやめるとか続けるとかいう議論を早くしたほうが良いと思う。第3部になればその議論の核心に入るのであろうと思うが,遅いと思う。 中井:ここでは、原発をやめるとか続けるとかいう議論をしたいと思って始めるのではない。むしろ、そのようなことに興味を持つ人が誤解することは避けるよう注意したい。その議論は,むしろ第2部の始めに福島原発事故の真の原因を論じる中でかなりはっきりとしてくるのではないかと思う。地震や津波による天災という見方が世界に広がっているようだが、そんなことではなく人災である。それを改めるには何が必要かを議論したい。私は日本が海外に原子炉を輸出する努力を初めて聞いた時、危ない話だと思った。失礼だが輸出先の国々の水準を疑った。しかし福島の事件は、1番危ない国は日本だということを明らかにした。ハードの問題ではなくソフトの問題だからで、日本はその点で後進国だからである。そこを乗り越えられるか否かを見極める必要があると思っている。 |
第1部, 第1回(2)原子力研究草創期の夢と期待
[EVO動画記録:……/town_meeting-11-07-23-13072/town_meeting-11-07-23-1352/town_meeting2.evo](⇧会議の動画記録を見る方は青字をクリックして下さい)
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アルスタウンミーティング・シリーズの第1部では,原子力研究創設期の夢とその後について、学界と産業界の歴史を採り上げ,前者については小沼通二さん,後者については住田健二さんにお話をお願いしました。先ず、学術会議を中心とした学界の努力と政界の対応に関して講演と討論を始めました。小沼さんの豊富な資料に基づく講演は、20世紀後半の科学史の一断面を後世に残す意義のあるお話でした。
小沼さんの講演で示された画像の記録とEVO動画記録をご覧頂ければ充分であると思いますが,ここではその画像記録を再現しつつコメントや討論と個人的見解を紹介します。 |
原子力研究創成期における学術会議と政財界の協調と反発
小沼通二:わが国の原子力研究草創期
の夢と期待 (I) 日本学術会議
小沼ほか七人委員会のアピール
朝日新聞(7月23日版)
原子力研究の原点
学術会議主導の原子力平和利用計画
コメント山口:原子核と原子力の別れ
当時の原子力の専門家とは、アメリカの文献を人より先に読んで原子力を解説できる人であった。殆ど工学系で原子核とはまるで無縁であった。駆け出しの僕から見ても原子核を知らずに原子力をやるという人が多かった。そんな人が蔓延って原子力を進めると危ないと思った。だから誰が何と言おうとこれは止めねばならん,基礎的にまともなことをしないと危ないと思った。チンピラには止められない。 他方伏見先生や、特に菊池先生が「科学」に日本の原子力研究の進め方について書かれた。5年計画とか何年計画とかで何10億円とか何100億円というお金を使っての計画で、それは随分包括的でした。原子炉(当時の言葉ではパイル)、RI利用、原子力船,それからウラン鉱からの精錬、核廃棄物の処理まで含んだ包括的なことを基礎的なことからやろうと言ったけれど、急進的な原子力推進主義者は、そんなことではなく、一日も早く原子炉を造るとか、一日も早くRIの利用をやりたいなどと言っていた。これは、下手すると危ないから止めねばならん,止めるにはわれわれには無理。早川老でも止めることはできないと思っていた。 偶々、広島大学理論物理学研究所の三村剛昂先生と話す機会ができた。湯川先生が出てくる前は日本の理論物理学をリードする大先生であった。彼は広島原爆の被爆者で、髪の毛が3回も抜けたと聞いた。生き延びるために野菜をもりもり食べ,トマトを食べ、毎日散歩や水泳を欠かさず、一日でも長く生きてアメリカに報復するという、大変国士的な人物であった。 広島に藤本と一緒にセミナーで行ったとき、日本では「とんまな」人達が原子力研究をやろうと言っている。危ないから止められないかというと「任せておけ、俺は被爆者だ」と言って、学術会議で声涙共に下る演説をして茅•伏見提案を殺してしまった。 工学関係者からは物理屋がハッスルしていたことを潰してしまったと恨まれた。それが原子核関係の研究者と原子力推進者との別れとなり、対話の機会をつぶした。クスリが効きすぎたと反省している。 例えば、西ヨーロッパと比べると、日本では未だその亀裂が今に至るまで残っていると心配している。西ヨーロッパの学界のボスはたとえ政府が自分に気にいらなくても、国益のために政府の政策には、原子力研究には寄与しなければならぬと考える人が多かった。日本にはそれが無かったのは残念であると思っている。 |
アイゼンハワーの国連演説に刺激されて日本の原子力開発が始まったように言われることが多いが、学術会議ではそれ以前から議論が始まっていた。ただこの時期,学術会議は原子核研究所の設立計画に力を注いでいて、原子力研究は、正力・中曽根らの政治家が
主導するようになった。そして、政治の力学も働いて突然に2億3千5百万円の原子炉築造予算が決まって、原子核研究所設立の乏しい予算計画と対照をなしていた。学界の反発は強いものであった。その反発はさらに乖離を生み、原子力開発推進派と反対派の間の危険な敵対意識も生むことになった。
原子力三原則
政界の強引な進め方に対し、伏見•武谷両先生は自由・民主・公開の三原則を唱え原子力憲章をまとめられた。その後も粘り強く政財界をも説得し翌年には原子力基本法に謳われるようになった。
急速に事態が進む中で、政治家の強引さと裏腹に政府関係者の不勉強と粗雑さが目立つ対応の下に調査会等を重ねられるが、学界と政界の接点において三原則は重要な規範をなしていた様子がうかがえる。
しかし,ここで登場する財界・経済界の反応はひどいものである。彼らが何故そんなにいそいだのであろうか?学界との対立を望んだのであろうか?分析する必要があろう。背景に何か大きな力が働いていたと疑われる。
国際的活動による進展 - 原子力基本法の成立
原子力委員会の設置と原子炉建設の開始
コメント高橋:原子炉(JRR-1)建設時の環境
1955年秋に産業界の人達、杉本朝雄(理研)、神原(日立)さんらが向坊さんと一緒に アメリカに視察に行った。1956年の原子力予算で行った。学術会議は何の役にも立た なかった。むしろ邪魔になっただけであった。その結果、私も原研に入って最初の 原子炉JRR-1の建設に携わった。 JRR-1の建設では、例えば、アメリカの技術者と一緒に原子炉の下に潜って作業した が彼らの大きい身体ではとどかないところに入って配線をしてやろうと言ったところ、 「お前はBNCを使ったことがあるか?」と訊くので、「No」と応えたら、それではダメだ と言われた。BNCコネクターなど日本にないので使ったことはなかった。測定器ばかり でなくBNCコネクターのような小さな部品まで全てアメリカからの輸入品であった。 (註;中井は、阪大物理教室を卒業して原研に入ったが、阪大ではシンクロスコープなど学部学生には使わせてもらえなかったので、その使い方は原研に入ってはじめて 高橋さんに教えてもらった。JRR-1が建設されたのはそんな時代であった。大学の実験 環境は大変貧しかった) |
討論(1-1) 国産技術育成の努力
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中井:国産1号炉の建設は日立•東芝•三菱•富士の4社による共同作業として行われたと理解しているが、その後この努力はどのように展開したのか伺いたい。 高橋:国産1号炉は全部日本人がやった。私も設計に参加した。建設に成功した後、 各社はそれぞれにGEとかWHとかと共同研究の協定を結び、アメリカの技術の導入をスムースにする技術協力に入った。 山口:どのくらいブラックボックスになっていたか? 例えば、宇宙開発でロケットの重要な部分は殆どが秘密で、故障したら日本で修理できないて米国に送り返していた。福島原発1号は米国から入れて,2号は日立が独自の力でやったというが国産でない部品がどれだけあるのか、国家秘密に属することがあったのではないかと疑われる。 高橋:そこまではわからない。 中井:そのレベルの話は次回のミーティングで話す住田さんが詳しいと思う。高橋さんは途中で原研から逃げ出したから詳しく答えられないだろうと思う。 高橋:私は国産1号炉JRR-3の設計にも参加したが、原研では専ら日本で最初の原子炉JRR-1を建設し臨界実験とその後の原子炉実験に参加していた。JRR-3については詳しいことは知らない。 中井:問題は自分たちの技術として身につけるという気持ちがあったかと疑う、今度の事故でも何か困ったことが起るとアメリカに或はフランスに助けを求めるという体質ができてしまっていると思う。 高橋:ま、そうですね。 山口:それは明治時代からのことだと思う。 中井:全くそう思います。 山口:明治時代、日本はできるだけ世界中を見て一番良い技術でestablishしたものを導入するための知識をできるだけ早く学ぶということに重点があった。その為には物理や化学のような基礎的なことはminimumだけ学んでroutinで動かするための知識だけ学んだ。 日本は、1級、2級,3級の技術がある中で1級のものはやっていない。 中井:していないと言うより,やらせないと言うところがある。能澤さんは高速炉の開発を進めていたが、自分は実験物理屋だから何でも自分が納得できるまでやりたいという主義でやっていると、上層部はアメリカで判っていることをもう一度やるのは不経済だと言って批判されたそうです。それはそうかもしれないが,そのような考えでは人材は育たない。技術の蓄積ができない。 山口:もう一つ気にいらないと思っていることがある。日本人は小さい発明は得意だが、大きいことはできないということだ。 微積分と関孝和の算術を比べると明らかに1級と3級の差がある。日本は小さい発明、例えばカラクリとか、が得意である。ところが、大きい基礎的なことはやっていない。 1級の仕事には失敗が当たり前で多くの失敗が重なる。小さな失敗は当然と思ってやらねばならん。ところが日本では、一寸した失敗をすると新聞もどこもかしこも大騒ぎになるのでおっかなくって開発ができないという風土がある。大きな技術をやる時は、致命的な失敗をしないけれど小さな失敗は当然起ると思って開発しなければならないと思う精神風土が望まれる。それが、いわゆる科学者、技術者、それにマスコミにもないのではないかと思う。 例えば,原子力船のときでも、つまらんことを針小棒大に騒ぎ立てて結局はまともな研究の開発を根本からこわしてしまった。 自動車では、原理は外国で、日本は無限に小さい工夫を百万も積み上げて世界一の技術態勢をつくりあげたと思う。 原子炉でも,安直な輸入で、フックの法則で言えばほんのちょっと変わったことには対応できるが、何か珍奇なことが起ったら対応できない、あるいは対応できる人間を作らなかったと思う。何でも想定外になってしまう。アメリカとか西ヨーロッパで起ったことにしか対応できない。もう少し広く見て,広く考える人が必要なのに原子炉の運転でも下請けに何でもやらせ、マニュアルに従ってしか対応できない。変わったことが起きたとき対応できる人間がいない。 日本では災害が起ったとき本気でに対応できる人間が育っていないと思う。火事が起きたら、例えば千葉かどこかで起った火事では消えるまで待つしか方策を考えられなかった。放射能汚染も同じことになりそうだと思う。 |
討論(1-2)「関西原子炉」京大(熊取)の原子炉について
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中井:大阪会場から発言のご希望があるようなので、お願いします。
住田(大阪からのコメント):東京会場の話をきいていて、意見の違い,事実の違いなど、いくつも言いたいこともあったけど,一つだけ簡単なミスを訂正してほしいと思います。 京大(熊取)の原子炉は国産であるような話になっていたけれど、これも残念ながら国産ではなく輸入品です。高濃縮ウランから中濃縮ウランに切り替えたのは、核拡散防止の為にアメリカ側の都合で無理矢理そうさせられたものです。これは京大炉だけのことでなく世界中の原子炉に対する要請で、日本でも原研の材料試験炉JMTRなど、いずれも低濃縮ウランを使っています。日本の技術力がどうこうということではなく全く別な要素によるものです。 中井:実は、この京大の原子炉を止めてしまうかどうかという議論をする委員会に参加したことがありました。その時は高濃縮ウランが手に入らなければ止めるより仕方がないという状況でしたが、旧ソ連邦が崩壊してそちらから濃縮度の高いウランを手に入れる可能性がでてきたので5年間だけ延長しようという結論になりました。今はどうなっているか知りませんが、その後もずっと運転がつづいているようです。 住田:濃縮度は下っています。むしろ問題なのはタンクがアルミニウム製だということです。アルミニウム製のタンクでこんなに永く未だに運転されているのは、世界でも京大炉とモスクワ工科大学の研究炉だけです。動力炉の心配をなさる方が多いのに,研究炉の方は幸か不幸か誰も心配してくださらない。もうそろそろ寿命が来ているので,本当は2号炉を造らなければならないところです。京大炉の関係者が強く希望しているのに京都大学自身が熱心でない、という残念な状況です。 大西:私が阪大の学部に進学したのは安保の最中の1960年頃でした。伏見先生は京大炉の設置場所を探してあちらこちらを渡り歩いて居られました。文化と関係があると思いましたが、先生は「絶対反対ばかり唱えないで条件闘争をしてくれないものか」と話しておられました。その頃、阪大には久米三四郎という反原発の運動家が居られて、私達学生は、むしろその強い影響を受けて伏見先生に叱られるという状態でした。その騒ぎで4年間の遅れができましたが、反対している人達が科学を理解しないで,放射線に関して過度の恐怖を抱き,原子力と言えば原発と関係すると考えるなど、それは今でも変わらないけど、一般大衆の理解力が科学の発展に大きく影響しました。 結局、伏見先生は諦めてプラズマ科学のほうに進んで行かれました。 中井:少し本来の議論から外れるが、息抜きをする意味で、最近学んだ面白い話を紹介したい。京都の街のことである。 永年私は京都について不思議に思っていたことがある。京都の気候は北に行くほど寒い。特に冬、雪が降るような時、四条以北は雪が積もるが南は積もらない。それなのに京都は北のほうが高級地で,昔は高貴な方が住むところであった。何故か?と悩んでいた。京都でタクシーに乗ると愛想の良い運転士に良く出会うので何故かという質問をよくしていた。誰も答えられないようであった。ますます不思議になった。 ところが,つい先日乗ったタクシーの運転手がこともなげに「それは風水ですよ」と教えてくれた。北の方に山があり、川が南に向かって流れる。そうなると北のほうに住む人の排泄物や汚れものが南に流れる。だから北に高貴な方が住むんですよ。そう教えてくれた。中国の昔の都は皆風水によってそのような構造になっていると教えてくれた。 そこで、ふと関西原子炉のことを思い出した。関西炉の建設に当たって大論争があった。高槻とか,宇治とか建設予定地が転々と変わった。宇治の可能性を話していた時に京大の反対派の先生が「どうせ大阪の人は京都の下水を呑んいるではないか」と言ったので阪大側が怒って,宇治の可能性が消えたと学生の頃聞いたことを思い出した。まさに風水の考えであったのかと今になって思う。結局関西炉は大阪の更に南方、熊取に建設された。今では関西空港の近くで外国からの人の流れの上流である。 |
発電炉の導入
討論(1-3) 物理学者の責任,社会的位置
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湯川:この話を聞いていてすごい違和感を感じた。われわれ物理学者は三原則とかいろいろな理想的なことを論じてきたが、そのため技術に手を染めることはなかった。本当に原子力発電などをやっているのは工学系の人達で、物理学者と工学者が完全に乖離している。いくらえらそうなことを言ってもその技術に手を染めていないのは無責任だと思う。 山口:それは、やはり日本が科学や技術を創り出していないことに原因がある。欧米では湯川•朝永クラスの大ボスが政府に対してそれが保守的であろうと進歩的であろうと国益の為には政府に協力しなければならないという気概をもっている。例えば原爆製造がナチスに対し遅れをとると世界が滅びるという脅威に対し国を挙げてマンハッタン計画を進めた。マンハッタン計画の成功は物理学者の評価を高めその後の50年に亘って高価な加速器を次々と造ることが許され、素粒子や原子核の研究を発展させた。物理学者に対する政府の信用を高めた。政府と言えば軍と政府である。これは国益にかなうと考えれば政府は研究を支援する。アメリカでもヨーロッパでもソ連でもそうである。しかし、日本ではそういう風土が欠けている。 明治以後,何でも外国の専門家に学べばよいというやり方を百年も重ねてきたからである。 だから社会における学者の重みが日本と欧米では違っている。残念なことである。 中井:始めに私が話した時、わが国の原子核科学と原子力開発の半世紀の歴史を比べたが、原子核研究は成功の道を歩んだ,それは山口さんが言われたように湯川•朝永のノーベル賞のおかげであり、更に伏見先生らを中心に共同利用研究の体制を作る努力をしてきたからだが、対照的に原子力開発は全くでたらめなやり方で失敗を重ねる歴史であった。 山口:明治以来、安直に輸入したほうが日本の学者を使って研究するより安価にできるという馬鹿げた考えが基本にあったからだと思う。 中井:原子力研究を始めるにあたって、伏見先生がもっと原子核研究者が参加するようにと言って居られたのに、ほとんど誰も原子力研究所に行こうとしなかった。 小田稔先生が、後日になって実は私もやりたかったと話されたので驚いたことがあったがこのクラスの人が参加して居られるともっと変わったことになったと思う。それが実現しなかったのは何故かと考えることが大切だと思う。それを排除する要素があった。 山口:日本では1次的の大発見はなかったかもしれないが2.5次的な仕事もあった。 例えば、新幹線開発である。 (この時、大阪会場で反論がでていたが、司会者の不手際で東京の議論を抑えて 大阪の発言を求めることができなかった。) 大西:日本にも1級の仕事はあったと思う。例えば、カミオカンデは一級だと思う。 アメリカで物理屋が大切にされるのは原爆を作ったからだと伏見先生がよく言っておられた。 中井:私がカリフォルニアのLBLにいた1960年代末期のある日,いつものようにカフェテリアでグループの仲間とランチをとっていた時、Table of Isotopesの編集者として名高いJack Hollanderが私達のテーブルにやってきて会話が始まった。いつものことだがこの日は特別で彼はWashington DCに転職するというので半ば挨拶の目的であった。 その時のJackの話は私には不愉快であったが、彼はアメリカでは物理学者が大切にされてきた。それは広島の原爆によって物理学者の評価が挙りAECの予算はいつも巨額で特に物理は潤ってきた。しかしそれが半世紀も経つと影が薄くなってきた。もう一度原爆に相当するような大きな仕事をすることが必要になっていると力説した。私は会話能力の限界もあって状況の理解が遅く反論もできなかったが、後で考えると彼はAECを継承して造られたERDAの私には不愉快な感想だけが残った。何でも「初物」に取り組むのが好きなLBLの人達は今日注目を集めている「代替エネルギー」の開発に取り組む人達が急に増えた。太陽電池、風力発電、地熱発電、潮力発電- - - が、それからしばらくランチテーブルの話題の大半を占めていた。しかし、アメリカ全体の力の入れ方は何故かその迫力に応えるようなものにはならなかったように思う。SSC計画が大きな話題となったのではないかと思う。そしてSSCと競合して巨大な予算を必要とするプロジェクトして、原爆開発時に汚染を広げたハンフォードやネヴァダの実験場の後始末がERDA/DOEにとってより重要な課題だったという話を聞いた。このころからアメリカの優位性が崩れたのではなかろうか。ゴア副大統領が、環境問題に強い関心を示したのはそれより後であったと思う。環境問題を扱うリーダーとしてWashington DCに行くところであった。 |
第1部, 第2回 原子力研究草創期の夢と期待:産業界
[EVO動画記録:……/town_meeting-11-07-23-13072/town_meeting-11-07-31-1352/town_meeting2.evo]
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日本の原子力創設期のある断面から:住田 健二
東京会場で行われた第1部第1回ミーティングでは、小沼さんの熱意に満ちた講演を軸に討論をおこなった。原子力平和利用の道を求めた学界の努力と,国策としての推進を急ぐ政財界の姿勢について、歴史的・社会的視点も含めて批判的に話が進んだ。そして、その中から半世紀に亘るわが国の原子力行政の反省点が数多く明らかにされた。
大阪会場に於ける第2回ミーティングでは、学界vs.政財界の動きとならぶ産業界・電力業界の動きについて,住田さんによる次の3つの話題(1),(2),(3)を中心に討論を進めた。
住田さんは,わが国の原子力研究の創始者の一人で、電力業界における物理出身の若手の推進者でした。その住田さんが各電力会社が必ずしも積極的であったとは言えないということを話されたのは驚きであった。思えば当時、原子力研究の基礎となる原子核研究も理論的研究は世界のトップ水準にあったが、原子核実験は戦後の復興、失地の恢復に追われ、加速器等における研究環境の整備の遅れ故に世界に水を開けられていた。その中で新しい分野に取り組もうとするのであるから原子力研究の推進に自信をもてるわけはなく,推進派の人達も勉強が必要であるし、人材の育成が必要であった。経営陣が慎重になるのは理解できることであった。
そのような環境のもとで,政財界が国策として原子力研究の開発を急いだのは何故かと考えさせられた。学術会議中心の推進論に飽き足らない政治家たち,正力・中曽根の主導による推進の動機は、彼らの政治的野心が彼らの気持ちを掻き立てたのであろうか?その背景にアメリカの存在が感じられてならない。
いずれにせよ、原子力研究は政財界主導で強引に進められた。
学術会議の理論物理学者と政治家が醸し出す推進論の中で,現場を担うと期待される若手(当時)の推進者達は熱心に勉強を重ねた。政治的に決まったコールダーホール型の黒鉛炉には賛成できないで、対象は米国型の軽水炉であった。東京で夜遅くまでの勉強会の後、新橋で酒を酌み交わし大阪行きの夜行終列車を待って帰る日々が多かった。やがて日本全体が高度成長時代を迎え原子力発電が重視されるようになると、その人達が各社で経営陣に加わるようになった。しかし,次第に原子力の費用が経営にとって負担になってきた。そうなると安全重視の声が通り難くなって、近年は技術系の経営参加が力を失ってきた。
JRR-3は、原子力国内産業の育成という国策的な目的をのため国内大手の5者、日立,東芝、三菱、富士、住友が共同で建設したものである。原研はそのことをいつしか忘れたようで,例えば40年史にはその記述がない。その後改3号炉JRR3-Mによる中性子物理の実験が注目されたが、JRR-3は動力炉建設への道程の第一歩の意味があった。
JRR-3からJMTR,そして高温ガス炉という流れが国産炉建設の流れであったが、研究炉の経験を積んだ後、動力試験炉JPDRを輸入して勉強をした。動力炉は米国から輸入が主力になったが、国内各社はそれに対応する力をつけ、それぞれに米国のGE(General Electrics)や WH(Westing House)と提携することになった。
学術会議でわが国の原子力研究の開始を論じた方々は、理論物理学の先輩がほとんどであったが、その学界の意思を理解し具体的に産業界に大きく影響を残した物理出身の若手(当時)のリーダーがおられた。森一久さんと,大塚益比古さんである。お二人の原子力産業界、原子力学界への貢献は,抽象的な理念を大切にした先輩の理論物理学者と違って実務的内容であった。政財界、産業界とやり合うには純粋すぎた湯川•坂田•武谷先生らと異って粘り強く取り組まれた伏見先生の支えとなって居たのが大塚さんであった。お二人は冥界で何を話し合っておられるであろうか?
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討論(2-1) 原子力事業に対する産業界の姿勢
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住田:1953年のアイゼンハワーの国連演説に刺激されて、政財界は国策としての原子力開発を進める決心を固め,1954年にはいわゆる原子力予算が計上された。
この急速な政財界の推進策に対し,産業界には戸惑いがあった。原子力という新しい分野について充分な理解ができていなかった。しかし,やがて日本全体がいわゆるバブル経済に突入すようになると原子力はその片棒をになうような要素として重要視され,結局は各企業もそれぞれに対応するようになった。原子力について勉強を重ねた推進グループの"若者"達は厚遇され経営陣の一端を担うものも多く出た。
しかし,原子炉の安全論争が起るとそれに対応する費用は大きな負担を求めることもあって次第に原子力への期待は冷えつつあった。それにバブル経済の失速も重なって経済優先の合理主義が擡頭してきた。電力会社にとって原子力事業はお荷物であると言われきたことが現実になりつつあった。これは福島の原発事故と独立のことである。 中井:このお話で、頭に浮かんできたことをお話したい。私は原研の1回生で1957年春に大学を卒業し入所した。日本原子力研究所が発足したばかりであった。原研はその1年ほど前から財団法人として発足していた。その最初の理事長が、元は経団連の初代の会長を務められた石川一郎さんであった。ある日、新入の私達5人ほどが居た研究室に視察に来られた。視察の最後に私達5人を相手に「無用の用」の大切さを説くお話を頂いた。 50年を過ぎた今でも目に、耳に、そして心に、浮かぶお話は「吊り橋」のことであった。山あいにかかる吊り橋は向こうまで渡れば良いのだからその幅は人の肩幅でよいなどと思えば大間違いである。少なくとも両側に同じだけの余裕を考えて肩幅の3倍は必要である。それが「無用の用」というものだというお話であった。さすが財界の第一人者のお話であると強い感銘を受けたことを忘れられない。 この石川元経団連会長のお考えと対照的なお考えの方として頭に浮かぶのが土光敏夫第4代会長である。「夕餉はめざしとみそ汁」という質素で健康的な日常を送られていると言う話を聴いて尊敬してきた。土光さんは戦後間もなく起った東芝ストライキで潰れそうな東芝を建て直したことで有名な方である。徹底した合理主義による経営を貫かれたことが,その真髄であると教わった。その後有名な土光臨調によって日本の経済政策にてこ入れをされた。いわゆる土光精神が,今日の私達の世界を支配している。 石川一郎vs.土光敏夫の対照的な精神はいろいろなところで見られる。原子力発電の歴史を土光さんはどのように見られたか大変興味がある。合理主義と安全性についてのガイドラインを建てる必要性を感じる。安全性に注目して巨費を投入する必要がある事業を如何にに評価すべきであろうか? 大西:毎年一度開かれた伏見会で大塚さんが「原子力事業は電力会社にとって荷が重い」と話されたことが思い出される。 |
討論(2-2) 原子力事業と外交
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大西:日本は核武装はしないが原爆を作る能力は高いことを示す意味でも、原子力の平和利用は大切であると思う。
住田:その種の意見を述べる人は結構沢山いる。外交における力の源になっていると言う人も多い。しかし,私は賛成できない。国際紛争の解決や国際的地位の向上など外交の手段に考えるには,もっといろいろな方法がある。 |
討論(2-3) 原子力に関わる人材の育成
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中井:ある友人から聞いた話だが、福島の事故で活躍(??)した東京電力、保安院の関係者の出身大学を調べると,圧倒的に東大工学部出身者が多いそうである。原子力開発を始めた頃、伏見先生が人材供給の大切さを訴えておられたが、期待どおりの集まりはなくしかも先細りの状況であった。その頃、東大工学部の大山彰先生をはじめ東大工学部の先生方が熱心に学生を育てられた。その結果、東大集中の傾向ができたと思われる。 住田:阪大でも同様で多くの卒業生がやOBが関西電力に進んだ。各大学に原子力工学科が設置された。問題は、その後原子力工学科が消滅したことである。 大西(問題の時期に東大教養部に居た):東大では教養部を終了する学生の進学先を決める「進学振り分け」を毎年行っていたが、原子力工学科志望の学生が急激に減少したので、原子力工学科という名前を変えた。 住田:同様なことが各大学で次々と起こり、量子○○学科とかシステム△△学科に変身した。そうなるとその学科の人事が進むなかで原子力工学関係の教員がなくなっていった。今もなお原子力工学科があるのは、茨城大学、福井大学など少数の大学に限られている。 |
討論(2-4) エネルギー問題百年の計を
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馬場:脱原発という考えが出され賛否両論が盛んに論じられているが、将来のエネルギー設計をまともに論じている人が少ない。百年後のことを考えることが大切である。 私も長い目でみれば、脱原発には賛成であるが,管首相のように直ちに原発をやめようという考えには賛成できない。一度なくしたことを復活することは極めて難しい。安全性をとことん追求した上で原発を残すことは大切である。 いやしくも政治家は百年の計を述べられるビジョンをもっていなければならない。それができない人は政治家ではなく政治屋である。 住田:管首相を取り巻く人達の考えはもう少しましだと思う。声を出していないだけでそれぞれに考えを持っている。あまりにも声をださない。政権の動きばかりを気にするからだと思う。 馬場:新しい原発を作らず、現状を維持して老朽化した原発を使いながら次第に原発を減らすという政策は実は一層危険である。脱原発はかえって不安全志向の政策である。そんな原子炉は直ちに止めて新しい原子炉を造るべきで,その努力の中で将来に向けた安全性の研究を進めるべきである。そうすれば原子力志向の学生も増えてくると思う。 ??:核廃棄物の処理という大きな問題に取り組むことも大切だ。 中井:それは「科学者の責任」として問われる問題で、次に第2部で採り上げて議論したいと考えています。 近藤:原発を運転していれば大量の放射線物質が蓄積し危険な状態になるということは、誰でも気づくことなのに原発を推進してきた方々はどう考えていたのでしょうか? 中井:それは菊池先生が,非常に始めの頃から指摘して居られた問題で伏見先生も何度も訴えて来られたのに一般の方の反応はないままここまで来た問題です。。 近藤:それを推進の当事者から直接聞きたい。 住田:原子力を推薦してきた人達で声明文をまとめました。先ず反省から始めて今後のことを考えようという呼びかけでした。しかし,呼びかけた仲間のうち3割ぐらいの人は何故われわれが謝らなければならないのかという反応でした。政府が悪い,東電が悪いという思いが強く、何ということになったのかと言う気持ちが強かったと思います。 馬場:1992年にIAEAから東電に対しMARK-1の欠陥について改善の勧告が来た,そして2007年のIAEA総会でつなみ対策が不十分だと指摘され対策することを東電は約束をした。それなのに東電は実行しなかった。水素爆発の可能性は1970年代から予言されていた。このような助言を受けていたことをご存知でしたか?ご存知でなければ東電は無視していたことを隠していたと疑がわれます。その意味で福島の事故は人災であると思う。チェルノブイリの事故をソ連型と呼ぶのに対し今度の事故は東電型と呼ばれている。 中井:先ず福島事故の本当の原因を,それは一つではないでしょが、深く追究し、その考察を背景に今後どうするかという議論をしたいと思っています。この事故は、地震だ、津波だ、という天災ではなく、また、緊急電源を失ったとか、冷却に失敗したとか、ベントに失敗したとか、と言ったハードウエアの問題でもないことが原因であることに気づくべきであると思っています。勿論ここに挙げたことは直接的に重要な原因であります 。しかし、もう少し深く追究すると、明治以来の日本人の体質だとか、官僚制度の悪弊だとか,人材育成の失敗とか、一般大衆の批判的考察力の不足とか、がいろいろ原因として挙げられ、それは一つではありません。 私は,脱原発に賛成とか反対とか決めつけない中立の立場で議論を進めたいと考えています。いろいろ厳しく議論をする問題ですが、やはり私達科学者は、科学者として科学者らしく理性的批判力をもって考えたいと思います。 近藤さんの質問については,そういうことを考えたことのない方々が,半世紀に亘りわれわれの世界を支配していたと思うと恐ろしくなります。何とか委員会と言っても,それが権威を持っていると思うと大間違いで,政府の委員には無責任な人が多く、追及すると言い訳が返ってくるだけで,それでは解決にならない。いらだちを感じます。次回以後にもう一度議論しましょう。 |
討論(2-5) 危機対応に強い人材の養成
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大西:JCO事故の時、発生して2時間後に住田さんがこれは「臨界」だと判断されて、原研の人達と協力して適切に処置された結果大事故にならずにすんだ。ほんとは上に通すべきところを住田さんがやってしまったとどこかに書いてあったと思いますがそうなんですか? 住田:上にとおっていますよ。小渕さんが了解してくれました。 大西:その時のモデルと比べて今回どうして最初の対応がうまくできなかったのですか? 住田:事故のスケールが違います。JCO事故の時はたかが核燃料物の取り扱のミスによるものであったが、今回は原因も事象も十重二十重に重なり大規模の事故でした。 対応に関して最も欠けていたことは、誰かがリーダーシップをとって全員が結束するという体制でした。特に,現場で自分が責任をとるという人がいなければ誰も動けないものです。東電社長では無理だし,ましてや首相にできることではない。そのような人出てくると現場の人がリーダーになれない。 近藤:前もって事故への対応は解っていなかったのか?マニュアルはあったのか? 住田:それはあった、しかし良く理解して責任を取れる人がいなかったし,こわいから責任をとりたくないという気持ちも働いたと思う。 中井:JCO事故の後、住田さんみたいなことをやったら始末書をかかされるのでしょう? 住田:そんなものは勿論断りました。自分を任命したのは総理大臣であって,あなたとは違うと言ってやりました。しかし,そんな事態になって原子力安全委員を罷免されるならその前にやめたほうが良いといわれました。 中井:住田さんの行動は立派だと誰もが思っているが、その行為に対応するシステムが問題だと言っているわけです。 前もって準備したとか、マニュアルを作ってその通りやったかどうかなどという考え方がまちがっている。もっと本質的なところを皆kればならないと思う。 藤原:総合的に考えると日本の教育が全て悪かったという結論になる。 住田:教育がね。 馬場:しっかりした人もいると思う。 中井:人材を育ていないし、人材を上手に使えないシステムになっている。未成熟の民主主義に支配されているところが問題があると思っています。戦時(非常時)の民主主義は平常時と違うということを理解しなければ、戦争に勝てないと思っています。 藤原:敗戦の結果、武士道を否定する教育に走ったのが間違いだと思う。 湯川(EVOによって外部のPCから発言):外野席から見ているみたいで議論に参加しがたいですけど、外野から見ているものの意見を言わせて下さい。 外で聞いていると;直ぐに原発をなくすことは考えられないとか、人災であるとか、科学者に責任があるとか、という議論が進んでいるようで、本当にそうかなという疑問を持つところもあります。そして何とかすればミスを避けられるというような考えで話が進んでいますが、人は必ずミスをすると思うべきです。われわれ日本人は過ちを繰り返してきたしこれからもミスが起ると思うべきです。それから想定外のことも必ず起ります。そのようなミスには避けることができることもできないこともあります。原子炉事故は,戦争も同じでしょうが、その責任を自分たちの人生の中で恢復できないような大きな問題を提示しいます。個々の事象を細かく検討することによって部分的には改善できるでしょうが、もっと本質的に捉えて考えることが大切と考えます, 中井:私も良く似た感じを持っています。細かい分析より大きく問題を論じたいと思います。 教育、人材養成について私の経験の一部をお話します。昔、物研連の幹事をしていた頃、各大学の物理実験について様子を調べる目的でいくつかの大学の実験テキストを集めたことがありました。いずれも丁寧に良く書かれていましたが、私は不満でした。殆どのテキストがマニュアルのように書いてあって、テキストとおりステップを踏めばできて、それでレポートを書けば宵ようんなっています。「これでは料理学校でやっていることと変わらないではないか」と良く言っていましたが、ある先輩から「中井さん、それは間違っている。料理のほうが高級な教育だよ」と注意されました。料理は文化です。学生実験と違って料理の場合は思わぬことが起る。焦げたり,佐藤をいれすぎたり、そのとき咄嗟に判断して対応できる。それが料理なのだと教わりました。 想定外のことが起ったとき,それに対応できる人を育てることが教育の真髄なのです。福島事故の初期対応を見ていてこの経験を思い出しました。教育を徹底すると言ってマニュアルを充実させるようなことでは、人は育ちません。私達が本質的なところに触れて対応したいと考えている所以です。人材育成・教育に関する議論はそのレベルで取り組みたいと思います。 |
討論(2-6) 研究者に対する官僚の対応
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元場:研究者たちの科学的•技術的判断に基づく提言などを受けとめるシステムはどうなっているのか? 中井:福島の土壌汚染作業を精力的に進めた谷畑さん藤原さんは、最初自発的に調べようとしたところお役所の大変厚い壁に当たって悩まされていましたがどうですか? 谷畑:あらゆることが緊急時なのに、平常時のやり方で対応するので行動が制限され危機対応が難しかった。例えば、何よりも準備の為の費用がなかなか出してもらえない。医療班は最初からおわりまでボランティアベースでやっていたが、大学が世話をみていた。また、福島県から費用の一部負担をうれていたが、国はなにもしてくれない。 中井:ものを言っても反応が遅い官僚のシステムが問題だろうと思う。 原子炉の大事故はいわば戦争のようなものである。戦争のとき、平時の官僚的民主主義に従っていたのでは負けてしまう。戦時の民主主義について経験がないところに問題があるのではなかろうか。そのくらい大型の原子炉に蓄積されるRIは危険である。菊池先生のご心配はそこにあった。 科学の社会貢献を進めるとき、科学者が終わりまで責任をとりたいのに、官僚や民間企業が間に入ってくる。科学者が専念できるシステムが欲しいと思う。 近年,日本も原子炉を輸出しようという動きがある。危ないなと思っていたら何と日本が一番危ないことが解った。それは、あまりに強固な官僚システムができていて、それに、おかしな個人主義と民主主義が良く育って動きがとれなくなってしまっているからである。 藤原:土壌汚染調査を行っているなかで非常に奇妙な感じを受けたことがある。土壌放射能測定の呼びかけに対し、核実験、核化学分野からの応募者が多く,また,医療関係者が多かったが、原子工学科の人の応募はなかった。 住田:けしからん話だ。原子工学を志す人間が、この非常事態の深刻さを理解していないと思うとなげかわしい。 |
討論(2-7) トリウム燃料炉
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水野:1955年に原子力基本法が制定された時から、Th は U と並んで新しいエネルギー源と考えられていた。Th はPu問題など廃棄物問題が少ないなどで注目されてきたし、関西炉の建設を議論した時西堀さんが候補としてTh炉の建設を推進された。Th炉は有望であると原研の古川さんが熱心にを重ねたが採り上げられなかったのはなぜか? 住田:古川さんがやっているから話が進まないと悪口が言われるほど、彼の個性が強く出過ぎた。 中井:私も数えきれないほど何度も古川さんに話をきかされた。一度原研の首脳部に居られる方に訊いたこともあるが「原研はThをやらないことにになっている」という答えしか返ってこなかった。その背景には,原研ばかりでなく大きな力が働いていることを感じた。電力業界か、政財界か、或はアメリカの力があるのだろう感じられた。 良く似た感じを受けることは水力発電にもある。太陽熱利用の最も効果的な方法は水力発電であるのにそれが嫌われるのは大きなダムを作りと結びつくからである。ダムを作らない水力発電はこれまで注目されていない。風車を一杯建てて景観をこわす風力発電より、小さな水車小屋が各地にできるほうがロマンティックな気がする。地熱発電、潮力発電などの可能性もある。それが実現しなかったのは電力業界、政界の力であったと思われる。菅首相はそれを問題にして、電力の自由化を主張したのだと思う。もっと味方が増えると期待していたのに何でも菅さんが悪いように思う風潮ができたのは残念であった。 Th発電は、京都で熱心に議論されていることは聞いているが難しいなという感想である。 今回の大事故の問題の本質は大量にRIが蓄積することにあってその反省が求められる中で 一番大切なことは原子力を進めるモティベーションは何か?何が若い人のモラールを上げるかということが問題であると思っています。Th発電にその意義を認められません。 古川さんの話で思い出すのは、何故日本が原子力船の開発をやめたのかという疑問です。非常に悔しく思っています。原子力船の問題は全く科学者が納得できない理由でタブーのようになっています。 原子力が火力・水力を補ってエネルギー源であることばかり注目されていますが、原子力のほんとの魅力はもっとほかにあります。かつて、原子力潜水艦がサンフランシスコから北極海を経てニューヨークまで一気に航行したとき人々は原子力の魅力を思い知らされました。従来の潜水艦では考えられないことです。日本でも原子力潜水艇を持つべきでしょう。特に今海底の開発に大きな期待が寄せられ、日本は潜水艇「しんかい」を造って世界のトップにたっています。この先の深海進出には原子力利用が必須になるでしょう。それなのに原子力潜水艦をもったことがない日本は。アメリカや中国、ロシアの後塵を拝することになります。今世紀の大テーマである海底開発のため原子力の平和利用を進めようという計画は間違いなく若い人達の気持ちを刺激します。 原子力の次世代を目指すためには、このように若手を奮起させるテーマを考えなければなりません。脱原発のように、原子力の未来を否定するようなキャンペーンは間違いなく若者のモラールを低下させます。優秀な人材が育てられないようでは、原子力は危険きわまりないものと思うべきでありましょう。 |
第1部, 第3回 原子力研究の夢と現実
[動画記録:・ARSタウンミーティング@奈良(2011.8.1) 1/3、 2/3、 3/3
高速炉、高温ガス炉、軽水炉、舶用炉:能澤 正雄
アルスタウンミーティングの第1部、第3回は奈良で行なった。第1回東京、第2回大阪のミーティングでは、それぞれ、学界、産業界における原子力開発にとり組む当初の努力やその基本的姿勢を話してもらい、関連する問題について討論したが、第3回は,実際に現場で高速炉開発に指導力を発揮し、その後も次々と出てくる現実的問題を処理して来られた能澤正雄さんにお話をお願いし、討論を行った。
1957年に日本原子力研究所が発足して約50人の大学新卒を採用した時、全国の大学から集まってきた私達原研1期生は,原子力の将来に大きな夢を描いていた。その中の何人であったかは忘れたが、一緒に勉強をしようと会合をもった。熱中性子炉は中高年がやるから、若手は次の世代のことを考えて「高速炉」と「核融合」を採り上げることになった。しかし、長くは続かずメンバーはそれぞれの所属元の業務に埋没して行った。
それから数年後、能澤さんが阪大から来られて高速炉開発のプロジェクトを始められた。それに参加できる仲間は羨ましかった。高速炉開発は夢のある世界であった。
能澤さんも同じ気持ちで始められた。どちらを見ても先進国の後塵を拝し,その真似ばかりの原子力開発事業の中で、高速炉開発は随所にオリジナリティーを発揮できる世界であった。
第1回の東京会場でも議論があって、山口さんが日本独自の技術が育っていないことを嘆いておられたが、能澤さんも同じことを問題にされ、数少ない独自技術の例としてSONYのWalk-manを例に挙げて居られた。確かにこれは今日の文化を築いたと言える携帯電話の原点であった。エレクトロニクスを小型化し手の中に収めるという画期的な技術の出現であった。能澤さんは、原子力開発において日本独自の力を発揮できるものとして高速炉開発を手がけられた。それは若者にも強くアピールした。そして、その夢が力のある若者達を育てた。以下に当日配布された能澤さんの講義メモを採録する。
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能澤さんが率いる高速炉開発グループは,ゼロからの出発であった。基礎的な勉強から始まり、FCA(高速炉臨界実験装置)の建設とその実験を通じて腕力をつけ,3年後には高速実験炉「常陽」の設計に入った。1967年「動燃」(動力炉•核燃料開発事業団)が発足し,動力炉関係の事業は原研から移されることになり、原研で作られた能澤さん達の設計は動燃の手に渡った。そして動燃の大洗の敷地に「常陽」を建設することになったのでナトリウム工学試験なども大洗に移って行われた。その5年後に「常陽」建設を終え更に2年を経て臨界に達した。ゼロから始まって10年余りという早さである。
「常陽」までは、能澤さん達の設計が活かされたので順調に進んだが、その後動燃は悪名高い「もんじゅ」の建設にとりかかった。そのとき能澤さん達の技術は全く顧みられず結果として全く下らない失敗で大事故を起こし,日本の高速炉開発事業に大汚点を残した。その原因は「どんな小さなことでも自分が納得するまで自分で確かめてやりたい」という能澤さんの実験物理学者の精神を「そんな不経済なことがあるか、外国で解っていることをもう一度やることがあるか」と否定した上層部の姿勢にあった。物理屋と工学屋の違いが現れた事故である。
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能澤さん達の高速炉開発が動燃に移り、その後、あろうことか「もんじゅ」の事故でそれまでの努力の輝かしい成果の影が薄れてしまった。悔しい限りである。
それでも、原研には能澤さんの精神と能力を高く評価する人達は多かった。高速炉で腕前を示した能澤さんには、軽水炉の安全性の研究という大きな課題が待っていた。
その前に,能澤さんは高温ガス炉の設計にも参加された。原研の将来がかかる大きなプロジェクトであった。
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1970年代の始め,米国で軽水炉の安全性に大きな疑問が提唱され,議会でも議論される騒ぎとなった。軽水炉の大口径配管の破損による冷却剤喪失事故に対し作動すべき緊急炉心冷却系(ECCS)に疑問が提起されたことにあった。結局,ハードの事故対策と安全審査の強化で解決することになった。(但し、今回の福島の事故は配管の破損と冷却系喪失の原因が地震・津波という天災であった。)
わが国でも、原研で能澤さんが大型の装置を作り実スケールの実験を重ねて調べられた。
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原子力船「むつ」の事件は,わが国の原子力開発事業に中で最も大きな誤りを犯した例の一つである。「むつ」の洋上試運転でおこった放射線もれは、過剰な放射線遮蔽によって船に課題な重量負担を与えないようにという目的で試運転を通じて放射線遮蔽を最適化しようとする科学的的なこころみを理解できないマスコミが騒ぎ、社会を騒がした。
更に政治家が漁民に対する約束を破るなど全く非科学的な理由で話がこじれた。その後始末が能澤さんに託された。
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能澤さんは原子力船「むつ」の母港がある陸奥湾の漁猟長の強力な帰港反対を説得し、その信頼に基づいて「むつ」の最終運航を実現した。「むつ」の船長によれば,非常にレスポンスの良い優れた船であるということであった。それにも関わらず原子力船の開発はタブーのようになっている。
原子力研究所が発足したころ、伏見先生が、原子核実験分野の経験豊富な人達が原子力研究に参加してくれないと、しきりに嘆いて居られた。アメリカでは実験物理の大物がこぞってマンハッタン計画に参加し成功した。日本でもそうあって欲しいというお考えであった。
能澤さんはその先生のお気持ちに応えられた唯一の方であった。阪大の菊池研究室で戦後第1号の阪大サイクロトロンを建設したチームのお一人で豊かな経験に支えられた実験研究のリーダーであった。原研でも若者の優れたチームを育てられた。
原研においても、お話にあったような難しい仕事を担当してこられた。軽水炉の安全性については最も的確に判断を下せる方である。このような方に緊急判断を要する初期の対応について相談にもこないというのは、いかがなものかと思った。原子炉事故のほんとの恐ろしさを理解するのに時間を要し対応に遅れたことが悔やまれる。冥界に逝かれた伏見先生は悔しがって居られることであろうと思う。人材を育て、人材を的確に活かすことができるシステムを作らないと安全は護れないと思う。
討論(3-1) 理論屋と実験屋
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坂東:東京の会で小沼さんが詳しく解説して下さったように,原子力研究の始めには学術会議で茅•伏見提案が議論され、原子力三原則ができて,湯川さんが原子力委員に加わったけれど理論屋さんが全部手をひいた。湯川さんはその後、反原爆•反核兵器に力を入れられた。その結果,日本の原子力政策に科学者側からの意見が入るところがなくなった。 中井:そのころ、活躍した人は全部理論屋であった。坂田先生達が何故離れたか、愛想を尽かしたのか、追い出されたのか知りたいと思う。 大西:坂田モデルが出て忙しかったらしい。 近藤:坂田先生がやめた理由は文書がある。資料をちゃんともらえないとか、メクラ判を捺させられるとか、名前だけ使われることがお気に召さなかった。 坂東:そんなことは、政府の委員会でめづらしいことではない。 中井:そこがやはり理論物理屋らしいところで、情報をくれないからやめだとか。 実験屋ならそんなことをしない。妥協点を見つけようとする。 坂東:理論屋の悪いところですね。 中井:そうですよ、伏見先生だけは別で、それから後も粘り強く行政に対応して来られた。 大西:日本の左翼が悪い影響を残したということは反省しなければならない。自分も左翼であったけど。 |
討論(3-2) トリウム燃料炉の可能性
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坂東:UとThの二つの可能性があるのに何故片方だけを選んで、Th炉の建設が軽視されたのか?物理学会の講演会で井上(信)さんがPu製造に重点があったからだと話していたのでショックをうけた。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 中井:Th炉に関わる議論は昨日のRCNPの会でも水野さんが問題提起をされ議論した。今日も多くの意見が出された。Th炉の問題については、何故この提案が採り上げられなかった政策を批判する意味があるが、それは今に始まることではない。昨今の問題は原発の安全性に大きな疑問が呈されその対応を考えることが主題になっている。その解決に関してTh炉の優劣を考えることは何の貢献も期待できない、と考えるので話題を次ぎに進めたい。 |
討論(3-3) 核廃棄物処理の問題
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坂東:日本の原子力開発を最初に議論した時、つまり学術会議で議論した時,或は正力・中曽根の政治力で始めた時,核廃棄物処理の問題はどれだけ議論されたのか?その重要性を指摘した人が居たのか知りたいと思う。多分充分な議論のないまま原子力事業を始めたのであろうと思うが、廃棄物の処分についてどのように考えていたのか? 能沢:アメリカに期待していたところがある。 坂東:そのうちに解決すると思っていたのか? 谷畑:廃棄物処理は科学的問題ではない、社会的問題である。日本は近くに深海がある。そこに捨てれば問題はない。 馬場:海洋投棄は昔盛んに行われた。イギリス、フランス、ソ連をはじめヨーロッパ諸国がやっていた。それに対し国際的世論の反発があって、いまや海洋投棄は禁止されている。 中井:このような問題は充分勉強した上で論じ合うべきだと思う。 坂東:何かを始めるとき,そのとき出る廃棄物の処理を考えていないというのはいかがなものかと思う。原子力発電の完成度は低い。それなのに次々と原発を造ったのはなぜか? 中井:長期に格納できる容器の材料は作れるが、それが1万年とか100万年経っても大丈夫だということを示し、社会を説得できなければならない,それが科学者の責任だと思う。10年•20年という短い期間の試験で1万年先の保証はできないのが問題だと思う。材料工学はそのような問題に取り組むことをさぼってきたと思っている。 中井:核廃棄物の処理の問題は12月初めに阪大核物理研究センターで勉強会を開きたいと思って企画中である。 |
[資 料]
[討論資料]
小沼通二:わが国の原子力研究草創期の夢と期待 (I) 日本学術会議
住田健二:日本の原子力創設期のある断面から
能澤正雄:高速炉、高温ガス炉、軽水炉、舶用炉
・原子力プロジェクト研究に従事して
小沼ほか七人委員会のアピール
[関連資料]
NHK:原発事故への道程•前編-1 (2011年9月18日放送)
NHK:原発事故への道程•前編-2 (2011年9月25日放送)
朝日新聞 (2011年7月23日版)
赤旗記事:民主的学者排除リスト (2011年9月4日版)
[参考資料] アルス文庫より
<伏見文庫>
・時代の証言 (抜粋)
・伏見・中曽根対談
<菊池文庫>
・原子力発電の安全性とパブリック・アクセプタンス
<中井文庫>
・モラルとモラール(PDF)
・原子核科学の半世紀
・学術会議の果たした役割とその退潮 [総研大研究会「共同利用機関の歴史とアーカイブス2004」より]
<能澤文庫>
・原子カプロジェクト研究に従事して
・科学史のこぼれ話(8) リッコーバー